通覚寺の歴史

 
 

 

 通覚寺の初代、釈敬西は三河の国、岡崎の大沢村(現在の愛知県豊田市松平町)出身で、家康の江戸開府にともない江戸へ出て、1632年(寛永九年)11月12日に寺を開きました。当初の寺の所在地名は「筋違橋外」で、後に神田明神が移転して来て「神田明神下」と変更されました。

 1657年(明暦三年)の「明暦の大火」の後に区画整理にともない幕府より替え地をもらい、今の「浅草」の地に移ってきました。


以下、「通覚寺三百五十年史」より

 三河で一向宗(真宗)が解禁になった天正十一年(1583)から程なく、天正十九年(1591)に、三河国碧海郡碧海庄青野中村の徳本寺第五世円乗が、武蔵国豊島郡江戸神田(淡路町交差点付近)に(神田)徳本寺を開きます。恐らくは、東本願寺教団の江戸開教の第一歩でしょう。

 この開教は、やがて江戸に幕府を開く家康と、教如との提携によるもののようです。残念ながら、江戸の東本願寺教団は、そのそもそもの始まりから、政治の中にどっぷりと浸されていたと言わざるを得ません。「権力による宗教の利用」と、「権力との癒着による教団の発展」という相互利用の構造は、ここにも貫徹しています。この構造は、この後、いよいよ強化の一途をたどります。

 まことに傷ましいことですが、この体質が今日まで尾を引いていることに私たちは重い責任を感ぜざるを得ません。と同時に、このどろどろした教団の歴史を通してこそ、不思議にも、今日の私たちにまで本願の念仏が生き生きと伝わって下さって来て下さっていることのご恩を思います。

 慶長八年(1603)になりますと、神田徳本寺が、従来の徳本寺はそのままに、寺号のみを「光瑞寺」と改めました。即ち、神田御坊の起源です。

 慶長十年、十一年、十二年と、教如は、しきりに江戸に下向します。江戸開府(慶長八年)直後のこの頃、幕府はしきりに江戸の繁栄を図り、教如をして、末寺の江戸への移転や創建を推進させます。教如の度々の江戸下向は、その「受け皿」作りのためのようです。事実、江戸の東本願寺末寺の大部分は、この頃、成立しています。

 徳本寺に続いて、このころ(慶長十年頃)、長敬寺•浄福寺•満照寺が、三河から江戸へ出府しました。

 通覚寺の開基•釈敬西は、この頃、長敬寺と共に、三河から出府したもののようです。

 慶長八年に徳川家康が将軍の宣下をうけて江戸に幕府をひらいた翌々年の頃ですから、当時の江戸は、武士•商人•職人等が全国から集まって来て、ぬかるみと砂ほこりの、雑然たる新開地だったと思われます。そういう江戸へ敬西は出府したのです、江戸開教の使命感に燃えて。

 寺の伝えによれば、敬西は、この時、三河から江戸への道中で、柏屋•白木屋と道づれになり、柏屋は江戸では敬西の門徒になる旨、話し合ったと思います。柏屋は、この時、江戸店開設のため、京から東海道を下って来たものと思われます。(柏屋は、現在の柏原氏の先祖です)

 通覚寺の開基•釈敬西は、三河国大沢村(愛知県豊田市松平町)の人です。稲垣重賢

の末孫•重勝入道と号していました。かねて親鸞聖人の教えをよろこび、教如上人に帰依して、布教に余念なかったといいます。あるいは、江戸出府以前、三河で「毛坊主」だったかもしれません。

 なお、稲垣重賢•重勝については詳しいことは分りません。頼三陽の『日本外史』には、元和元年(1615)の「大坂夏の陣」の頃に、「稲垣重種」という徳川方の武将が登場します(巻之二十二)。名前が一字ちがいですから、重賢•重勝(敬西)と何らかのつながりのある人物かも知れません。

 さて、慶長十三年(1608)から元和元年(1615)にかけては、幕府による諸事院法度が特に集中している時期です。仏教勢力を政治的支配体制に組み入れる政策が 始まったのです。

 もっとも、この時期に、本願寺に対する法度は与えられていません。室町期から戦国期にかけて農民層に大いに教線を伸ばし、侮り難い勢力を持つ本願寺教団に対して、法度が示されなかったのは、幕府の対本願寺政策の立ち遅れのためではありますまい。むしろ、本願寺が他宗に先駆けて幕府に服属し、教団内部では門主を頂点とする中央集権機構が早くから整備されていたのです。

 その後、寛文五年(1665)、幕府は各宗共通の「諸宗寺院法度」を制定して、本願寺もその適用をうけることになります。ここに、幕府の宗教統制は、一括化への新段階を迎えます。

 幕府の宗教政策は、その後も次第に制圧の度を強め、享保七年(1722)には、「諸宗条目」を定め、各宗共通のものと、各宗派個別のものとの二通を下し、本願寺宛てのものも初めて発布されます。

 その後も、法度の内容は、年代を経るに従って、細かい個々の事例の規定に及び、きびしさを加えて行きます。

 本願寺教団は、幕府の意を体してこれに協力します。それが即ちそのまま、教団側の意図した門主専制支配の目的にも沿うこととなって、その安泰は続きます。

 慶長十四年(1609)八月、光瑞寺が、神田御坊と徳本寺とに分離し、神田御坊は神田明神下(旅篭町辺)に移りました。

 翌十五年十月十三日、徳本寺が、神田明神下の神田御坊境内に移転します。

 この前後に、敬西は、神田御坊境内に一宇を建てたものかと思われます。即ち、通覚寺の前身です。

 慶長十七年三月、幕府は直轄領に切支丹(きりしたん)を禁制し、翌十八年には、切支丹禁制が全国に拡大され、切支丹摘発のため「宗門改め」が実施されました。即ち、摘発された切支丹は転向を強要され、棄教した切支丹は、棄教後所属せしめられた寺院によって、偽装転向でないことを証明してもらわなければならなかったのです。 

 翌十九年十月五日、教如上人が歿し、宣如が継職します。

 同月、「大坂冬の陣」が始まり、十二月に和議成立。

 翌元和元年(1615)四月、「大坂夏の陣」が起こり、五月、大阪城落城。ここに豊臣氏は滅亡しました。

 二年四月、家康が歿します。

 三年、西本願寺が江戸浅草浜町(今の日本橋横山町南)に江戸浅草御堂(後の築地本願寺)を建てました。

 五年九月十五日、将軍秀忠が、烏丸七条の東本願寺の寺地を公認安堵しました。

 九年の頃から、幕府•諸藩が、改宗を拒む切支丹をしばしば処刑しています。

 寛永七年(1630)、神田御坊の堂宇等が完備しました。

 九年九月、幕府は各宗本山に末寺名簿の提出を命じます。いわゆる「寛永の末寺帳」です。この登録によって、幕府は、本山を通じての全国末寺の一括的把握を意図したのです。

 本末制度は、先ず寺院法度によって制度化され、次いで末寺帳において確立されます。

 真宗においては、本山も末寺も共に世襲制なので、末寺住職は本山によって任命されましたけれども、本山が任意にこれを選定したのではありません。特別の事故のない限り世襲を認め、いわば家職を安堵する形で任命したのです。従って、真宗の本末関係は、単なる本山•末寺の関係にとどまらず、門主と末寺住職との譜代の関係として現れます。

 同じき寛永九年(1632)十一月十二日、東本願寺は、通覚寺敬西に阿弥陀如来本尊を下附します。


御裏書は宣如上人です。



 

通覚寺初代 釈敬西


『通覚寺三百五十年史』

稲垣俊夫 著(前住職)

通覚寺門徒会 刊

1983年11月13日第1冊発行 より一部抜粋







昭和58年(1983年)に発行されました、前住職稲垣俊夫 著「通覚寺三百五十年史」という赤い本より、一部抜粋します。

『親鸞が90年の生涯を尽くして明らかにして下さったものは、「唯だ念仏して弥陀に助けられ参らすべし」という浄土真宗、即ち、能力や資格を問うことなくいかなる人をも洩れなく救って下さる「他力本願念仏宗」、でした。「浄土真宗」とは、現実的には政府に登録された一つの宗派に違いありませんが、それだけに尽きるものではありません。また、「浄土真宗」は、単なる教理や教義でもありません。親鸞自身が師,法然との出遇いを通して発見した念仏者の伝統。それをこそ、親鸞は、「浄土の真宗」(真実の宗教)と名づけられたのです。長い長い年月にわたって念仏に生き念仏に死んで行かれた無数の人々の歴史そのものが、「浄土真宗」なのです。』(通覚寺三百五十年史より)


 通覚寺三百五十年史には、創立よりさらに歴史をさかのぼり親鸞聖人誕生から記されています。前住職いわく、

「はじめは通覚寺創立の時点(一六三二)から書き始めるつもりだったのですが、考えてみますと、ある日あるとき通覚寺という寺院が突如として出来上がったわけではありませんので、通覚寺史を語るには、創立よりさらに歴史をさかのぼることになりました。」とのこと。

ここではすべて書ききれませんが、興味のお有りの方はぜひ通覚寺副住職までご一報くださいませ。


※前住職は現在高齢の為、法話など難しくなってまいりましたが、過去の執筆や会話の中から私たちが感じた事など多くありますのでこちらのホームページから前住職の言葉などをこつこつ発信してゆけたらと思います。

1632年 

東本願寺より下府された阿弥陀如来本尊

2012年 

通覚寺本堂にて執り行われた報恩講の様子